いつもの最初で最後のお呼ばれ

何年も車にひかれた猫を拾っていると

たまに車にひかれた猫の集会に呼んでもらえる

(不思議なことに二度と呼ばれないんだけど)

久しぶりに呼ばれて末席で眺める

車にひかれた猫が立ち上がる

にゃおみゃお言うのを要約すると

「二か所で車にひかれた猫になった

もう繰り返すな

車をひく車を持とう」

車?

札束をくわえた猫がカーディーラーに行く姿を想像する

猫はカードを作れないだろうから現金払いだろうな

あれ、みんな僕を見てる?

頭のない車にひかれた猫もこっちを見るんだな

え、僕が車を用意するの?

そうか、それで呼ばれたのか

しょんぼり

車をひく車は猫もひくから車にひかれた猫が増えるよ

車に怒り

車に轢かれることに怒るのは分かるし

車で轢く側になりたい気持ちも分かるけど

車で轢く側になるのはダメだよ

死の受容プロセスの「怒り」段階だろうから受容できないだろうけど

その代わりに殺そうよ

車はダメだよ、殺そうよ

殺そう

車社会にとってはテロリストだけど

車にひかれた猫社会にとってはレジスタンス

これで車も殺すのもなしになればいいけれど